記憶回帰装置の話

皆さんにもあるのではないか、記憶回帰装置。



触れると、そのときの気持ちや感覚が蘇ってくるもの。人によっては、懐かしさに、支えに、苦しさにもなりうるものだ。

私にも沢山ある。
おやじのラーメン、阪急梅田駅、生田緑地の展望台、おとぎ話のwhite song、錦糸町


記憶に縋っているわけではない。記憶がただ存在している感覚である。
いいものだけではないし、悪いものもある。それはあくまでも、今までの生きてきた全部であるからだ。



年齢を重ねれば、家族や友人、職場の仲間も増えていくし、色々な経験もする。好きな人もできる。恋愛も終わる。環境だって移り変わる。
その隙間、隙間には、記憶回帰装置が、ポケットから知らぬ間に溢れていく砂のように音も立てずに落ちていく。だから、ふと耳に飛び込んできた曲で涙がこぼれてしまう。意識なくとも、処々に装置は存在しているのだ。



記憶は、自分の意思と反して勝手に増えてしまうものだ。勝手に増えてしまうのだから、どうしようもない。


勝手にされるくらいなら、こっちで勝手にしてしまえ。
どうせ忘れられないのだから、覚えておいてしまえ。

私はそう思ってしまう。決して思い出したい記憶ばかりではないけれど。




何ともない終電後の駅前の景色だって、大好きだったあの人のことを思い起こさせる。大好きだった人の、声、言葉、表情、手の温かさ。
終電後の数時間、このまま夜がのびてしまえばいいと願ったあの日だ。


未練ではない。

好きだった人は、変わらず好きなまま。嫌いになる理由はない。
ゆえ、記憶である。





自分の記憶回帰装置を使えるのは、自分だけだ。
あなたにとってのその記憶が宝石ならば、それは宝石だし、大事に取っておいていい。


今日も今日とて、思い出しをする。
記憶回帰装置を使いこなすことができれば、向く方向は前だけなのだ。